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70年前のわたし

 
七夕の日に東京芸術劇場で、マームとジプシーの「cocoon」を観た。久しぶりに観たものを一週間くらいぐるぐると考える経験をしたから、人に見せられるものにも残しておこうと思う。すごく長くなったし、完全に感情論だけど。ほぼほぼネタバレですので、ご注意を。
 
 
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cocoon」は、今日マチ子さんの原作をマームとジプシーが舞台にしたもので、初演は2013年。私は去年の、たぶん今くらいに原作の漫画と初演の記録本(cocoon on stage)を読んだ。そのあと散々感想を漁ったりして、どうやら大変な舞台だったらしいことを知った。その時点では、再演は決まってなかったから、レディレディを見逃したときと同じ感じだったのだけれど。なので、再演の発表が出たときは、やたら嬉しかった。
 
あらすじだけなら、女子校に通う生徒が看護隊として戦争に動員されて、巻き込まれて死んでいくっていう、誰でも知ってる「ひめゆり」の歴史。ただ、お話の中で一回も「70年前」の「第二次世界大戦中」の「ひめゆり学徒隊」なんて単語は出てこない。加えて何回も「いまは」「ここは」「どこだろう」と繰り返される手法。ありきたりな曖昧加減だと思うのだけど、まんまとやられてしまうくらいには、観ていて同調した。共感とかを超えて、なんかもう同調だった。
 
全然お話とは関係ないんだけど、私はこの日の午前中に母校にちょっとお邪魔していて。ちょっと感傷に浸ったりして、女子校楽しかったなあ、とぼんやり最近の大学であった嫌なことを全部共学のせいにしながら芸劇に行ったのだけど、これがいけなかったな、と今になって思う。舞台に自分を重ねてしまう要素がこの日の私にはいつもより多かった。
 
舞台構成的に、学校生活→看護隊としてガマへ→看護隊が解散になって海へ走るという三部から成る。この学校のパートにどれだけ入り込めるかが舞台にのめりこめる鍵なのかなと思う。女子校のあの感じに。あの長い廊下に。廊下ですれ違った相手がほとんど知り合いで、仲のいい友達にあったらワアワアはしゃいでみて、喧嘩も廊下で起こるし、窓の外は晴れだ。体育ではエースにキャアキャアしたいし、とりとめのない話で休み時間は潰したい、もしくは放課後もぎりぎりまで話したい。誰かが歌い出したら合唱するし、掃除当番サボったって別にそのくらい怒られることじゃなくない?って思う。今度おいしいもの食べにいこうよ。先生こんにちは。女の子しかいない、あのある意味で平和で綺麗で脆い空間の、うるささと礼儀正しさの混在してる感じ。本当に忠実でこれほんとに男の人演出家なの?女子校出身者じゃないのマジ?と思ってしまった。
 
その中に生きている生徒の名前、ちょっとした性格がわかるようなエピソードがこの学校パートで紹介される。結構しっかり、その子のキーワードになる言葉が繰り返されるから、いやでも覚えてしまう。名前をつける行為。特にああ、このエピソード好きだな、と思ったのが主人公が幼馴染に「えっちゃんさ、わたしが女の子好きかもって言ったときに一緒に泣いてくれたじゃん?」「あれは切なかったね」「でもさ、まだわかんないよ。だってわたし、男の人のこと知らないもん」ってところ。この憧れと好意がないまぜになった感情と、男の人って存在してるんだけどいないみたいなそういう気持ち、わかるなあ。加えて、えっちゃんは「一緒に泣いてくれた」のだ。気持ち悪いと言うわけでも、それは間違ってるよと否定するわけでもなく。この相手を否定しない、という感覚ってとても女子高独特だな、と私は思っている。女の子の相談は意見じゃなくて共感がほしいだけ、っていう言葉がよくあるけど、そういうのじゃなくて、「相手のことを否定しない」というもっとシンプルな感じ。誰を好きでもなにが好きでも、私はあなたのことが好きだよって言ってくれる世界。
 
バタバタと廊下を走っていく光景も何回か繰り返されるのだけど、「廊下走らない!」って注意が飛んでくるようなキャアキャアした楽しさから走ってた数回を終えて、最後の一回は空襲を知らせるために走る。今まで笑って走ってた子が、廊下でキャアキャア話してた子たちに「空襲が来るって、早くガマに」って真剣に伝える行為だけで結構緊張する。この空襲から空気が少しずつ変わっていく。「去年は体育もあったのにな」っていうセリフもあって、一年後には音楽も体育もなくなって、学生たちも戦争に参加することになる。「お国のために」って言葉を信じることが正解だったこと、そこに疑問をもったら生きられなかったこと、そういう感じのことが言葉の端々にあった。看護隊として、ガマに行ってからもだれもやりたくないとかそういう言葉を言わないあたりとか。
 
動員されたあとの、ガマのパートはほんとにずっと怖くて、頭の片隅でずっと途中退場するときに一番邪魔にならないルートを考えてた。舞台の照明も暗くなって、声にエコーがかかる。舞台上がというより、シアターイースト全体がガマの中という感覚。もともと洞窟とか暗い場所が得意ではないのも合間って、口を押さえながら見る感じだった。(そういえば、このシーンになる前、主人公のサンと幼なじみのえっちゃんが空襲で焼けた街を走り抜けるシーンがあるのだけど、あそこのシーンの煙に匂いはあったのでしょうか。いや、あったのだと思うけど。とても追体験をした気分だった)
 
たまきさん、というかわいいことが好きな子がいて。ガマでも鏡をみてるような、絵の上手い友達にデートに行くときの服を書いてもらうような、そういう子で。ああ、こういう子いたよね、って思い当たる感じの、まあ教室にいたら仲良くならないな、って感じのそういう子なんだけれど、彼女が一番最初に殺されてしまうのね。ガマの入り口で受付をしてたのだけど、爆撃にあって死んでしまう。彼女は唯一といってもいいくらい戦争が終わったあとのことを話す子(「私が将来デートに行くときの服書いて」とか)だったから、こうなんかやりきれない気持ちに今はなるんだけど、ここの演出ほんと怖かったからもう見てるときはそれどころじゃなかった。暗い会場に、いきなり大きな音と舞台の下からの強い光とサンの状況説明する声が音に負けないように大きく響いて、でもあっけなく彼女は死んでしまう。音の覚えはあるんだけど、観たものがぼやけてるから目をそらしてたのかもしれない。これが続くようならもうだめだ、観れない、そうだったらさっき考えてたルートで出よう、と思ったのだけど、あそこまで大きく演出したのはここだけだった。「誰かが死ぬことに慣れてしまった」みたいな台詞があるけど、このたまきさんのシーンはまだだれも死ぬことに慣れてなかったから、大袈裟に演出して、みんなが感じた恐怖とか衝撃とかそういうものを体感させたのかなと思う。
 
もう一つ、ガマのシーンで絶望的なのは、解散命令を言い渡されるシーンかな、と。外は前線で、今よりずっと死の危険が迫るわけだけど、ガマを明け渡さなきゃならないから、「明日の朝各自でグループを組んで、南の海まで走りなさい」という先生の言葉に従わない選択肢はないわけで。南の海に辿り着いたところで生きられる保証はないんだけど、そこをゴールに設定して、そこに行けば大丈夫というないような希望を信じるしかないこの感じ。夜通し、学校で歌ってた歌を歌うのだけど、この歌もほんとあまりにマッチしすぎててですね。
 
このまま行きなさい 懐かしいあの海へ ずっとずっと先のこと願いながら行きなさい このままひとりで
このまま行きなさい 新しい彼の地へ ずっとずっと昔のこと思い出しながら行きなさい このままみんなで

 

海にはひとりで行くしかない。新しい場所へは昔のことを思い出しながらみんなで。あべこべだなあ。いっせーのせ、という合いの手を曲の合間にいれるのだけど、この「いっせーのせ」って自決のときも言ってるから考えてしまうよね。

解散になって、外に出てからの混沌具合もなかなかに怖い。何回も何回も同じ場面を繰り返すリフレインがマームとジプシーの演出方法なのだけど、各班散り散りになって走り出すときの赤い照明と叫び声が酔いそうなくらい残る。あと、各班、前半の学校での仲良しグループと一緒だからなおさら、「誰かが倒れても置いて行きなさい」という言葉が辛い。

順番としては4人目の、えっちゃんが死ぬシーンで一番泣いた。足を撃たれたえっちゃんは、友達におんぶしてもらってるんだけどその騎馬戦みたいな陣営がつまづいて転んでしまう、そのまま「もう頑張れない」と言って死んでしまうのだけど。ここもリフレインで、学校の、平和だったときの学校のくだらない会話をやる。「あんみつ食べにいこうよ」「ねえ、あれなにかなぁ」なんて、ずっと昔の話みたいなことを繰り返して、そのときは「変だよ」って切り捨てた「体が動かなくなることが怖い」っていう台詞がここで変なことではなくなる。学校の校庭でけんけんぱをするえっちゃんを上から見てるサンのシーン、「またやってるよ、えっちゃんってさそういうところあるよね」って大好きを込めた呆れた顔で、学校パートのときはやってたのに、このリフレインでは泣きながら言ってて、つられてめちゃくちゃ泣いてしまった。可哀想とかそういうのじゃなくて、えっちゃんが死ぬのが悲しいというある意味でとても普通の見方をした。このシーンは、学校のリフレインもかなり多いし、サンの独白もあるし、「一番近い友達が死んだ」ことを丁寧に書いてて、でもそれもたまきさんのときみたいな衝撃には慣れてしまってるからないのだけど、ひたすらに悲しくかいてあっていいなと思った。だって悲しいじゃん。戦争で死んだ友達にもそりゃ悲しみの重さに大小あるよなあ、と思わされた。

もうほとんど最後で、サンたちと他の班の生き残った子たちが再会するんだけど、その他の班の子たちは「自決しよう」と持ちかける。その子たちの班では、しょうこちゃんという子が彼女たちのしんがりを務めて死んでしまったのだけど、自決の相談のときにひとりが「だってさ、しょうこちゃんも死んじゃったんだよ」となんの理由にもなってないことを言う。これって理由にはなってないんだけど、とてもとても気持ち的にはわかる。この時点では、もう南の海に行っても仕方ないって感じもあって、逃げ場もなくて、捕虜になるくらいなら今きれいなまま死んだ方がいい、だってしょうこちゃんも死んじゃったし、って理由じゃないけど、なんかこう後押しになってしまう感じ。国もいざってときは自決しなさい、と教えてて、最善の選択なわけないんだけど、最善の選択に見えてしまう精神状況。結局サンたちは断って、また走り出すんだけど。あのことがなかったらサンはもしかしたら誘いを断らなかったんじゃないかなあ。

ラストは、サンともうひとりマユ(サンの憧れというか好きな人というか一番の親友というかそういうごちゃまぜの感情を向けられた学校の憧れの的だった子)で、南の海までの一本道を走って行くのだけど、ここのリフレインがとてもとても青春を感じた。好きな人と手をつなげること、自分のことを見ててくれること、戦争とかそういうことがここのシーンだけなかったみたいな、そういう感じ。なんか時かけかな、みたいな、いやまあそこまで爽やかじゃないんだけど。「サン!」「マユ!」と名前を叫んで走るパートを何回か繰り返したあとに、徐々にその名前を読んでいたところが「ゆけ、もっと高く、もっと遠くへ」とって言葉に変わっていって。すごいキラキラ感。月の下を走っていく二人。あそこほんと好きです。でも、走ってる途中にマユも撃たれてしまうのだけど。「彼女」の死については、私は舞台の方がいいなと思っています。「ゆるしてくれるかなぁ」という言葉と、白い布の侵食と。やっぱり走るしか無くなってしまったサンと。

この後のサンは、靴を脱いで波打ち際で手を伸ばして「わたしは、生きることに、した」と言い切る。本当にとても素敵だった。舞台の一番最初に同じシーンをやっていて、それと比べるとまた切ないような気持ちになる。暗転してからも響いてた息をする音がまだ残ってる。救いはあるなあ、と思う。

この舞台で一番残ったセリフがサンの言う「偶然戦争だったから」という言葉。仕方ないよ、偶然戦争だったから。うん、たぶんそこ以外にあんまり女子高生だったころの私と差異はないのかもしれない。あの綺麗な守られた純粋な空間にいたときに、国が決めたことで、偶然戦争だったら私も「お国のために」あそこにいた可能性の方が高いんじゃないだろうか。劇場の外に出たら、2015年の池袋は平和で驚いた。もう七月だけど、まだ梅雨明け前の先週は彼女たちが感じた空気とあんまり変わらないはずだ。

 

追記

沖縄の取材を始めました。

備忘録→ http://uink.hatenablog.com